宮木あや子『手のひらの楽園』のまとまりのない感想、というか備忘録

 よかったです。よくないと記事なんて立ち上げないけどな。

 

 たまには表紙買いしてやろーということで、新潮文庫の新刊棚に積まれていた『手のひらの楽園』を読みました。新潮文庫って紙の密度が高い感じというか、同じページ数なら角川とかよりも紙が重たい気がします。どっちも好き。表紙買いといえば、僕が表紙で選ぶとだいたい女の子のイラストが……。しかしこの表紙、右手に発電所、急深の浜……って本編の「ササ浜」なんですね。というのは置いといて、離島が舞台の小説が読みたいなとなんとなく思っていたのです。空も海も真っ青でど真ん中に女子高生ドーンの表紙、最高じゃないですか。ひと夏過ごせば真っ黒になってしまうような強烈な日差し、慣れ切った塩の香り、子供たちのはしゃぐ声、花火、虫取り、スイカ……離島に抱くイメージが夏過ぎる。まあ読んでみると帯に偽りなし、厳密には「離島が舞台」じゃなくて「離島出身の高校生~」で、島で展開するのは体感三割くらいだったんですが。外で育った人が島の常識に戸惑うのも、島で過ごした人が外を知るのも、島小説です。

 ネタバレなしでもうちょっと。この小説、島・田舎×女子高生×エステという新手の青春小説でした。「〇〇科」とかで専攻を持ち出してしまえば高校生のキャラクターでもかなり専門的なことが描けるし、青春小説って構成要素を工夫すれば無限に新しいのが作れそうでワクワクしますね。

 あと、百合です。

 そろそろネタバレします。

 島が舞台の小説って他がどうなのかわかんないですけど、将来的にここを出る出ないの話が、登場人物の一側面として描かれがちな気がします。島に限らず田舎町でもそうですね。跡継ぎ問題なんかもかかわってくるんでしょうか、「いまさら翼といわれても」なんかもまさにこんな話でした。この小説の場合、松乃島と長崎県に出る出ない問題が発生します。離島という極端に閉鎖的な環境を心のよりどころと思うか檻ととらえるかみたいな視点もありました。本当に窮したときには縋れる場所、帰る場所であってほしいとかとか。タイトルの「手のひらの楽園」ってひとつにはこのちっぽけなふるさとのことを言うんじゃないかなと思ったりもして、島を追い出された友麻の母にとってももちろん友麻や飛央にとっても、この島が楽園でありますようにって思います。

 考察とか得意じゃないのでふわっとした解釈ですが、「手のひらの楽園」が指すものについてもうちょっと。主人公の友麻がエステ科所属なのもあって、温度とか大きさとか感触とか、人の手に対する描写がちょこちょこ出てきます。恋人同士で手をつなぐとき、実習で触って確かめるとき、ふとしたきっかけでたまたま触れ合うとき。友麻はわりと、他人の人柄とか自分と相手の距離感みたいなものを手のひらから読み取っています。また、友麻自身の手のひらについても、施術がうまいわけではないのに「何か」が出ていて妙に気持ちがいいとか、「何か」が出なくなってしまったとか、「何か」は出なくなったけど気持ちいいとかで、変化や成長が象徴的に描かれています。正直ここマジで好きなとこです。たぶん島から出たばかりでプライバシーの概念とか全く縁遠い、無垢すぎる友麻にしか出せない「何か」があって、それが次第に失われていくんですけど、代わりに人としてもっと大事なものを上書きしていくみたいな、そういうお話だったと思うのです。

 あと、百合です。百合小説としてもいいんじゃないですか。その道に明るくないので客観的なことは言えませんが。友麻の暮らす寮に二年生から入ることになったこづえ、ふたりはもちろん同室。こづえははじめ、二年から入寮することになった理由もあってなかなか心を開きませんが、そこで友麻の施術です。少しずつ心を開いていくこづえ、増えていく笑顔、自然な冗談、お互いの実家に招きあう……。いや、百合です。特に第二章、友麻がこづえを松乃島に招くところには、僕が島小説に求めていたすべてが詰まっています。備忘録ですけど、どっちかというと忘れて読みたいし、ネタバレありの感想とはいえこれを語ってしまうのは無粋すぎるので、この辺にしておきましょうか。

 

 はい。マジでなんもまとめる気がありませんでした。初読時の感想を思いつく限り残しておくって素敵だと思ったので、書いちゃいました。ではまた。